当サロンのお客様は長く通ってくれているお客様が多いです。施術をしながらの話は、身近のお友達などに言えないことを、私には心拓いて話をしてくれます。 最近は❝親の介護❞の話を多く聞きます。
私自身が45年の介護経験があり、話しやすいのかもしれません。
お客様の話を聞きながら、45年前の私にも届けたいと度々思います。
そして最後にはいつも皆さんにこの言葉を伝えています。
「親の介護って、もっともっと楽に考えてもいいんだよ。」
親の介護に直面している方に向けて、介護の取説ではありません。私個人の体験談です。
こんな乗り越え方もあるんだと少しでも気持ちが軽くなってくれたら嬉しいです。
45年の介護を終えて
結婚と同時に舅と同居しました。夫は末子だったので、義父は既に仕事も退職し毎日家にいる生活をしていました。
義父はもともとお酒の好きな人でした。外に出ると必ず、深酒をしてくる人でした。
「同窓会があるから」と言って出かけた日の事でした。
帰りが遅い事に心配していたら、舅が道端で倒れていると近所の方から言われて出ていくと、舅は玄関の前で倒れていました。怪我等は無かったのですが、その後、脳梗塞が見つかりました。
舅は、定期的に病院へ行き、どちらかというと健康には気を付けていた人でした。
その日から突然介護が始まりました。
紙おむつも無い、介護制度もない、預けられる施設も無かった時代でした。
介護をする事は当たり前かなと思っていましたが、まだ生後3か月の娘の洗濯物と同じ洗濯機を使うのだけは、どうしても嫌でした。
なので舅の洗濯物は、お風呂場でバケツに入れて洗いました。
洗濯機が当たり前の時代になんと原始的な洗濯なのかと、訳もなく涙が込み上げてくることも度々ありました。
夫は誰にでも優しい人でしたので、夫の前では絶対辛い顔を見せないように頑張りました。
夫は舅にも、とても優しく親孝行な人でした。
仕事から帰ってくると、舅の傍へ行って何をしてほしいのかと聞き、舅の用を何でもしてあげる人でした。
ある日、いつもの様に私が舅の髭を剃り、洗髪もして寝かせたはずなのに、仕事から帰ってきた夫が髭剃りと洗髪の準備をしているので、「どうしたの」と聞くと、「しばらく洗髪してもらってない」と言ったそうです。
年を取ると、やはり息子には特別な感情なんでしょうね。
精神的に追い込まれることが日常茶飯事の様にあります。
今は、紙おむつも多く有り、おむつの支給制度もあります。
せめて体力的な疲れを軽減するためにも制度は権利として、利用されることをお勧めします。
ディサービスも、ショートステイもとても助かります。どんどん利用されると良いです。
私は実父、母より、舅との同居の方が楽だと思っていました。
舅の時は介護制度が無く、多くの家族が自宅で、介護していました。
最近の傾向として親との同居も、長男とは限らず、娘と同居する形が増えてきて、二世代住宅の表札が別々の苗字の表札が目立ってきました。
舅も実父母とも同居してきて思うのは、自分の親より、夫の親との同居の方が楽だったと感じます。
これを言うと皆、驚きますが夫の親と向き合う方が心が優しくなれます。
お互いに気を使い合うというか、遠慮するというか、義理同士の方が、夫への気遣いも楽でした。
ディサービス、ショートスティの利用は絶対に嫌と言います。
実父も実母も、家にばかり居るより少しディサービスに行くと良いのじゃないかとの周りの提案に、頑なに嫌がりました。
この話は、何処の家庭でも絶対に通る道のようです。
とても滑稽に思います。
でも、ちゃんと行くようになりますから、焦らずに向き合ってください。
介護に付きっ切りで、子供達には寂しい思いをさせてしまいました
3番目の子供が産まれて、私の体の快復に時間がかかり、仕方なく短期で特別養護施設に入所させました。
その頃、養護施設ではまだ寝たきりの利用者が多くなかったのか、寝たきりの人のケアーがあまり万全ではなかったようで、あっという間に床ずれが出来てしまいました。
それが原因で熱を出し、施設から呼ばれて飛んでいくと、舅はすっかり弱り切っていました。
すぐにそこを出て、病院に入院させ私は毎日病院へ通い、床ずれはかなり良くなりました。
娘が3歳、二男が生後2か月。娘は舅のベットの脇で半畳ほどの敷物の上で家から持ってきた玩具で大人しく遊んでくれる子でした。二男はまだ新生児なのでベットの足元で寝てくれていたので、私は2人を連れて長男が幼稚園から帰ってくるまで、舅の傍にいる毎日でした。
ある日、病院の看護師さんから「お姉ちゃんもちゃんと見てあげなさい」と言われ、何のことか分からなかったのですが、直ぐに分かりました。 娘の瞬きがとても多くて、ストレスからくる❝チック❞になっていたのです。
玩具で大人しく遊んでくれていると思い込んでいた私でしたから、ショックでした。娘には可哀そうなことをしてしまった後悔は今でも心に残っています。
私の長い介護生活の中で5本の指に入るショッキングな出来事です。
その時同じ部屋の隣のベットに入院されていたおじさんの付き添いをしていたおばさんから、「若いのに偉いね。年を取ったら絶対良い事があるよ」と言われましたが、その時の私は、年を取ったらって?もうその時はどうでもいいよ。と思って聞き入れらる余裕などありませんでした。
舅との別れが突然訪れました
病院を退院し、家にも戻り舅も少し落ち着いたと思っていたのにある日の朝、近所のママ友と井戸端会議をして家に入ったらベットの横に舅が倒れていました。
救急車を呼び、娘と二男を隣のおばさんに預かってもらい、舅に付き添って救急車に乗りました。お隣の玄関で娘が寂しげに歯を食いしばって泣くのを堪えていました。
小さな子供達にも随分我慢させたなと思います。
それから1か月程は予断許されず、子供たちを実家に預けて、病院に泊まり込んで、最期は夫も仕事中で、駆け付けた時には間に合わず、看取りは私一人でした。
病院からの帰り道、夫から「長い間苦労かけたね。ありがとう」と言われ、今日まで頑張ってきて良かったんだと涙が止まりませんでした。
8年間の舅の介護が終わりました。
舅の介護が終わったら、次は実父と母です
舅が亡くなって、3年が経ちました。
次は実家の父母の事です。
夫は若い時にお母さんを突然事故で亡くしているせいか、私の実家の母をとても慕ってくれていました。
私の父は古い昔の男で、いわゆる訳の分からない頑固親父の見本のような父でしたので、母はいつも父に振り回されていました。
母が体調を崩して入院した時などは、台所のガスコンロに火が付いたままだったり、玄関に鍵もかけずに留守だったり、とても一人にしておける状態ではなかったです。更に父はお金の管理も全くダメな人でしたので、このままでは母が退院しても二人での生活は無理だと断定できる状況でした。
夫からの提案で、義母が残してくれた家を売り、大きめの新しい家を買い、父母を引き取る事を決めました。
夫は兄2人、姉2人の末っ子の3男坊、私も兄が2人で末っ子の一人娘です。
そんな私達が親を看るって、「私たちはそんな星の下なんだね。」と、夫といつも言っていました。
母が退院すると、父は直ぐに元の生活ができると思っていました。私達の所に移ることは頑固として承諾しませんでしたが、父の我儘をこれ以上許すことは出来ないと、半ば強制的に引っ越しをさせました。
父は私たち家族と同居してから、勿論遊び仲間からも遠ざかり隣近所には知り合いがいなくて、家に引きこもる様になり、少しづつ物忘れが進むようになってきました。
その頃、上の兄が思いもよらない病に、1年半の苦しい闘病の末に48歳で悪性リンパ腫で無念を残し亡くなってしまったのです。
父も母も、私たちと暮らしていたものの、いつかは兄が迎えに来てくれると信じていました。なので、兄の死はどんな言葉にしても表せられないくらいの落胆の中にいました。
間もなくして、みるみるうちに父の痴呆が進みここから実父の介護が始まりました。
実父は徘徊が得意。
父は管理職で長い間務めていた人でしたから、プライドだけは高く、その性格故にディサービスへ通所しても、職員さんを困らせることが多かったようです。
何度も施設側と話をしましたが、結局は手がかかるという理由で、退所勧告を出され「分かりましたやめます。」としか言えませんでした。
学生だった息子達が、「おじいちゃん、退学になったね」と言って、我が家の笑い話になっていました。
母も元気でいたので、私は仕事をしながら父の介護をしました。
父はとにかく徘徊が得意でした。ちょっとのスキを見て外に出てしまいます。
ジャンバーにも、靴にも、帽子にも全部に名前と電話番号を書きましたが、外見からは認知老人に見えないので、家を忘れて道路を歩いていても誰からも不審に思われません。 誰もジャンバーの裏側を見てくれることがないからどんどん遠くまで行ってしまいます。
今は、認知症徘徊検索GPSがあり、徘徊して行方不明になる事故はかなり減ったそうです。
まだまだ、その頃は家族皆で戦っていました。リビングから玄関に出るドアの鍵を家族がかけ忘れることが多くて、いつもそこから脱走されていました。ある日ドアの前に椅子を置いて、あの頃流行っていたモンチッチを座らせてみたら、なんとそれ以来そこのドアには近づかなくなりました。
何が効果的なのか、何がダメなのか、何が良いのか、何年経験しても分からないことは幾つもありました。
家の中ではふらついて歩いているのに、外に出ると驚くほど速く歩けるものです。なので姿を見つけても絶対に後ろから声を掛けてはダメです。背後からそっと近づいて腕をサッと掴んで取り押さえるのがコツです。
こんな事もありました。夜になって交番から「保護した」と連絡が来たので迎えに行くと、自分が徘徊老人だと自覚していないので、交番でお巡りさんを相手にお喋りしている姿を見て、こんなに多くの人達に心配をかけて、皆が必死に探し回っているのにと腹が立ちました。
お巡りさんへお礼を言い、父を車に乗せる時、腹立つ感情を抑えられなくて乱暴に車に押し込んで後ろを振り向くと、お巡りさんがその様子をバツ悪く見れてしまいましたが、お巡りさんが「気持ちわかるよ。頑張ってね」と言ってくれたんです。恥ずかしいやら、空しいやら、胸がいっぱいになったこともありました。
舅の介護をしている時には無かった感情でした。
そんな父の後半は寝たきりになり、病院に入院、食べることが出来なくなり、遺漏を付けるからと手術に耐えられるようになるまでとの理由で、ずいぶん長く入院させてもらっていました。その頃の病院は3か月位しか置いてくれないと聞いていたので、父の入院は稀だったようです。
何も喋らないし、何も食べらないし、殆ど目も開かなくなった頃、東京から叔母(父の妹)がお見舞いに来てくれて、帰る日に父の耳元で「兄さん帰るからね。早く元気になってね」と声を掛けたら目から涙を流していました。耳だけは聞こえていると良く聞きますが本当なんだなと、胸が熱くなりました。
それから間もなくして危篤だから夜も付き添うようにと言われ、毎晩私が付き添い呼吸をしているだけの父の姿を見ていました。人は生まれた時に心臓の動く数を与えられるのだとしたら、父の心臓はあと何回動くのかな、なんてとんでもない事を考えながら父を眺めていました。
朝になって夫が母を連れてきてくれて、母とバトンタッチし私が仕事に戻った直ぐに、父が息を引き取ったと母から電話が有り、あーやはり母に看取ってもらいたかったんだなと強く思いました。
父に与えられた呼吸の数が無くなったのです。
父が亡くなり、ますます母は元気。
この家を買ったとき、長男が高校入学、娘が中学入学、二男は小学校4年生 父、母、夫と私 全部で3世代同居の7人家族でした。
子供たちは皆、家庭を持ち長男だけが地元に居るけど別所帯、娘と二男は東京で暮らしているので、この大きな家には父が亡くなり母と夫と私の3人になりました。
その頃から私は小さな会社を経営していたので、毎日帰りも遅く、母の面倒は夫に頼りっぱなしになりました。
何んでも頼っていた母もすっかり弱って、このごろはボケボケしてるし、話も口うるさいばかりに聞こえてきます。
仕事が忙しい事を理由に母には優しくしていませんでした。
時々、どうして優しくしてあげられないんだろうと、自己嫌悪に落ち込みました。
でも、家に帰って母の顔を見ると、我儘言ってないかい、勝手な事言ってないかい、〇〇さん(夫)を困らせないでよ、迷惑かけないでよとついつい小言になってしまいます。
その頃の母はまだ元気だったので、私の小言にいちいち反論してきて、よく喧嘩になりました。
まさかの夫が・・入院
その頃の私は、母の事も家の事も夫に全てを預けていました。寧ろ自分がいない方が良いんじゃないかとさえ思っていました。
そんな時、夫が突然倒れて病院に搬送され入院しました。様々な検査をしましたが結果は何も出ず、親の事や家族の事みんな夫に任せきりにし、夫の体調の変化にも気づいてあげられなかった事を深く反省しました。
手のかかった父が亡くなり、母と夫は毎日のんびり過ごしていると思い込んでいたから、何がそんなにストレスだったのだろうとその時の私は気持ちを理解してあげられませんでした。
翌年、長男の所に初孫が産まれそれはそれは可愛くて、こんな宝物があるのかと心から幸せを感じ、夫もいつもの笑顔を取り戻してくれました。
次の年に、東京に住んでいる二男の所にも孫が産まれ、東京へ行くことも増え、夫は若い頃東京で暮らしていたので東京へ行くことが好きでした。
3人目の孫が男の子で、初めての男の子の孫に、更に可愛くて笑いが絶えない日を送るようになり、夫もすっかり落ち着いてきました。本当に子は鎹です。
鎹とは・・木材を繋ぐ留めるときに使う金物で、それに由来して人と人を繋ぐという意味合いの様です。
今度は私たちが舅&姑
その年のお正月、長男夫婦から、家を建てようと思うので「一緒に住もうよ」と言われました。
私は結婚した時から親と一緒に生活してきて、助けられた事もあったけれど、やはり自由もなかったし、子供たちにはそんな思いをさせたくないから「同居はしない方が良いと思う」と言うと、「子供たち(孫)にとって、おじいちゃん、おばあちゃんが一緒にいる生活の方がいいよ、自分もいつもおじいちゃん、おばあちゃんがいてくれて楽しかったよ。」と長男に言われました。
大変だった、辛かったと思っていたのは私だけで、子供たちの成長の過程で祖父母が一緒にいることが当たり前の事だったのです。
なんだか恥ずかしいなと初めて感じました。
それまで暮らしていた家はかなり老朽化していたし、そこを処分して長男名義で新しく二世代住宅を新築しました。
1階部分が母と夫と私。2階部分は長男家族です。
母が92歳、孫は2歳と90歳差。この2人がとっても仲良しで、長男の嫁ちゃんも本当に優しい子で、こんなに幸せに暮らせている事。これがあの舅の病院で言われた「年を取ったら良い事あるよ。」なんだと、心から感謝しました。
ただ、90を過ぎた母はだんだん痴呆が進んできて、あんなに楽しそうに遊んでいる顔とはまるで別人の顔に豹変します。
暴言を吐き、こんな家になんか来たくなかったと言われた時には、ダメと分かっていても叱り倒してしまいました。
母は夫からも嫁ちゃんからも優しく大事にしてもらって幸せな毎日を送っています。だから私は怒るのが役目だと勝手に決めていました。
この後、母は96歳迄長生きしてくれました。良くも悪くも沢山の事件や事故、笑い話も涙誘う話など沢山ありました。
コメント