親の介護を上手く乗り越えるお話。 第二章

多くの方達が親の介護に直面した時に、どうしたらいいのだろう、自分の考えはこれでいいのだろうか等と一人で悩んでいる方に届けたいブログです。

私も沢山悩みました。  人に相談しても解決しないのが親の介護です。何故なら、日本の世帯数は5,000万以上もあります。その世帯数の家族の形があり、その数の介護の仕方があるからです。

でも、逆に介護で悩んでいるのはアナタだけではないです。少しでも気持ちを楽にして介護をして欲しいです。そんな思いでお節介なブログを書いています。

30年間接客業をしてきました。自分の体験とお客様の体験談も聞いて、沢山の方とお喋りしてきたから書けました。

楽に介護をしましょう。もっとお喋りしましょう。

第一章は舅と実父の介護の話でした。  第二章は母の介護の話です。

父親と母親とは、また違う楽しさと苦しさがありました。

 母は90歳でベトナム旅行ができました。

子供たち(母からみて孫たち)から、90歳の誕生日にベトナム旅行がプレゼントされ、無理かなと思いながら、決行しました。

我が家の家族構成は、90歳の母・夫・私

長男・嫁ちゃん・孫3歳と生後6か月

二男・嫁ちゃん・孫1歳

娘夫婦    総勢12名です。

出発はそれぞれの住まい地から成田空港で合流しました。

母はまだ自分で歩いていましたが、それでもやっぱりモタモタするので、敢えて空港では車椅子をお願いしておきます。

国内線から国際線への移動も空港の係りの方が就いてくれて、とても親切に、普段通らない所を通って、あっという間に国際線ロビーに着き驚きました。

 パスポート申請も簡単に通過。

夫と私、息子夫婦は10年のパスポートの期限がまだあるので、孫たちとおばあちゃんの3人のパスポートを申請に地元市役所に行きました。

90歳のおばあちゃんと3歳と生後6か月の孫たちのパスポートは有効期限5年の選択しかないそうです。

生後6か月の孫は証明写真を撮るのに、抱っこしてる人の胸に白い布を貼られます。ちょうど赤ちゃんの背景が白になるという形です。

勿論泣き顔はダメ、横顔もダメ、笑いすぎてもダメだそうで、皆が心配して覗いているのに、当の本人はケロリと真顔で、カメラ目線で、一発OKでした。

申請課へ持っていくと、たいそう関心されて、なんと窓口の見本に使わせて欲しいとまで言われ、なんだか面白い記念になりました。

 機内でまさかの私の席が・・

母と夫と私の席を3人並べて決めたはずなのに、何故か私の席に誰か座っています。

CAさんが通ったので、その旨を伝えると、座っていた人のチケットを確認してくれました。そしてそこは、間違いなく私が座る席でした。

残念な事に間違って座っていた私と同年代位のご婦人は、とても不機嫌な顔をして、渋々席を移られたんです。出発前の小さなモヤモヤでした。

「人のふり見て、我がふり直せ」の精神でいようと思いました。

6か月と1歳の孫たちは、それぞれバシネットという座席の前に設置できる赤ちゃん用ベットを使用して、快適な空の旅が出来ました。

でも、ママたちからは、どちらの席も飛行機の真ん中あたりの、トイレの壁になった所だったそうで、トイレを利用する人たちが、そこで立ち止まるので、母乳を飲ませるのに苦労したと言っていました。

一方でベットでコロコロしている赤ちゃんを皆が覗き見て、沢山の人達から「かわいいね」と声を掛けられたようでした。

 90歳のおばあちゃんと6か月の赤ちゃん

おばあちゃんも孫たちも、体調が悪くなることもなく、ご機嫌で6時間のフライトが無事終わりました。

家族12人が楽しくベトナムを満喫するために、ホテルもアパートメントホテルを選びました。

トイレ、バス付きのベットルームが5つ、キッチン付きで食事は全食自炊です。

お部屋の中では3歳と1歳の孫が走り回っています。6か月の孫はベビーカーに乗せています。

90歳の老人と3人の子供たちにはサイコーのホテルでした。

空港には12人全員が乗れる車、ドライバー、通訳が向かいに来てくれて6泊7日の旅の移動にお世話になり、現地の市場やスーパーで買い物をし、ベトナム料理の作り方まで教えてもらいました。

小さな子供たちの為に日本から素麺やうどんの乾麺とパックになったご飯を持っていきましたので、ベトナム料理に白米でしたから子供たちと一緒に母も食事の心配はなかったです。

二男たちがベビーカーを日本から持ち込んでいたのですが、帰ってくる時にドライバーの方にプレゼントしたそうで、後から聞くと彼の家では赤ちゃんが産まれたばかりだったそうです。

日本製のしっかりしたベビーカーでしたので、とても喜んでくれたそうです。

  楽しかった❝サプライズ❞

この旅行は、おばあちゃんの90歳の誕生日祝いの他に、実はもう一つ大きなサプライズイベントが組まれていました。

それは娘夫婦の結婚式です。

娘たちは既に入籍していましたが、結婚式はしていませんでしたので是非おばあちゃんに見せたいと兄弟達が企画したサプライズでした。

出発前にホテル内のレストランに予約をしておきましたので大きめの個室を用意していてくれました。

3歳と1歳の孫は2人お揃いのドレスに着替えて、カゴに入れたリングピローを2人で持ち、リングガールを務めました。

勿論、娘たちにはサプライズでしたので、2人のキョトンとした顔が忘れられません。

ブライダルリングは、なんと前日近くの市場で、兄弟たちが選んだ玩具だったそうです。

お嫁ちゃんたちが用意してくれたウエディングケーキも運ばれてきて、2人で仲良くケーキ入刀もでき、手作りの結婚式が笑いの中で無事に行われ、おばあちゃんも大変喜んでいました。

レストランの方々も日本の結婚式を覗き見に来ていました。

ケーキ入刀の後、沢山のギャラリーへもケーキを振る舞い一緒に祝ってもらう事が出来、お陰様で娘たちは今も仲良く幸せに暮らしております。

ここで裏話ですが、実はウエディングケーキが、それはそれは甘くて少しぐらいの甘さじゃなく、流石の甘い物好きの私でも2口がやっとでした。

以前バリ島で食べたケーキも凄い甘くて、日本人の甘さの感覚と少し違うのでしょうね。

90歳と生後6ヶ月と90歳差の家族でのベトナム旅行は、それぞれに楽しみ、家族の絆もより深まり、出発前の心配は「案ずるより産むが易し」で無事帰国が出来ました。

 母は91歳になりました。

母は花を咲かせるのも野菜を育てるのも本当に上手に作る母でした。

91歳になり、この頃から草むしりの最中に畑で転んでいたり、少し大きめの石を持ち上げられなくなったり、更には花壇の花の中に野菜が育ってたりと、行動に少しづつ違和感が見られるようになってきました。

遂には夏の暑い日に熱中症で倒れてからは、自分で外に出ることを億劫がるようになりました。

春になって新しいお家も完成し、今までの家から1キロ程離れた所に引越をしました。

新しい家は庭があまり広くできず、更に母の部屋から今までの様に裏庭に出るには、玄関から出て回り込まなくてはいけない間取りになり、その頃の母は俗にいう「まだらボケ」の段階でしたから益々外に出る事が無くなりました。

2階には息子家族がいます。上の孫(女の子)4歳と下は1歳(男の子)です。

日に何度か降りてきては、楽しく遊んでいきます。

母は孫たちと遊ぶ以外の時間は、ソファーに寝転んでいて、気づくと眠ってる毎日です。昼寝をしちゃうから夜眠れなくなり、安定剤に頼ってしまう悪循環です。

それを一寸でも注意しようものなら、血相を変えて怒ってくる。

なんか、何かが違うなあと、少しづつ忍び寄ってきていた認知症発症の頃でした。

下の孫も幼稚園に通う事になり、母にもディサービスに通所するように進めましたら、こちらもまた、血相を変えて「絶対に行かない。そんな所なんか嫌だ」と、悪たれをつきます。

でも、これまで義父、実父と介護のプロともいえる私ですから、色々考えました。

まずは、包括センター経由でケアマネージャーを決め、(ここでひとつ)ケアマネも人です。皆さんとても良い人たちですが、やっぱり残念な事に馬が合わないという人もいます。

我が家に来てくれていたケアマネはお仕事も完璧ですし、人柄も良い方でした。でも、始めは一方的に、「こうします、こうじゃないとダメです」という言い方が強い人でした。

3者が気持ちよく、仲良く付き合っていく為にお互いの理解と納得を確認した方が良いです。

決して、攻撃的になるものでもないし、敵対心を持つものでもない、縁あって出会った人達なのです。お互いに歩み寄ると分かりあえるものです。

相手を否定するのではなく、こちら側の家族の在り方や今までの生活がどんな風だったか等をお喋りとして、お茶でも飲みながら話すのが良いです。

お陰様で我が家はケアマネともディサービスのスタッフの方々とも本当に仲良くしてもらいました。

いざ、通所を希望した時、何処の施設を利用するか、何処が良いのか、何を基準に選ぶのが良いのか、何処迄こちら側の要望を言ったら良いのか、逆に言ってはダメなのか等、沢山の悩みに当たります。

私は全部言ってみました。その中で施設側が人手が足りない(この理由が殆どです)等の理由で要望に応えられないという事もあります。例えば紙おむつにパットを挟まないで欲しい(これは自宅でも大事な事柄の一つです)と言われても理由が分からないままでいると、いつか不満になります。

だから、なんでも聞きます。

紙おむつにパットを挟んで使うと、自分でトイレに行った時にトイレに流してしまうようです。そんな大きなパットを流したら当然トイレは詰まってしまいます。

どうして嫌がっていたディサービスに通うようになったかというと、ケアマネとよく話をして、まずどんな環境の施設が良いか、大きくて沢山の利用者さんがいる所や、少人数の所もありますので、下見は大事です。

下見には本人を連れて行きません。厳しい言い方になりますが、ディサービスに通わせてもらうという事は、既に本人の意思確認はその時の気分で変わっていく状態にまで進んでいる事を介護する側が理解してください。

可哀そうとか、本人の希望も聞いてあげないと、という中途半端な同情(そう思う事が愛情だとの思い込み)は捨ててください。

若い頃から一緒に暮らしている家族なら、本人の好みや思考も良く知っているはずです。

その家族が、本人に一番ふさわしいと思える所を決めることです。

決まったら、本人には「一緒に遊びに行ってみよう」と言って連れ出します。

百中百発、本人も気に入ってくれます。  2回3回通ううちに「ここは自分の通う所」と認識していきます。

でも、敵もさる者。日によっては朝からごねます。

「あんな所いかない」って言います。

我が家の母はずっと、「私だけお風呂に入れてもらってない」と言っていました。

私のサロンに来店されるお客様の中に、私と同じ親の介護をされている方が多いです。

殆どの方々が、同じことを言います。 「聞いた時、まさか・と思っていたけれど、今 本当にそうなってるわ」と言います。

私は3人の親を看てきた介護の生のプロです。

子供を育てていた時に、育児書を見るとノイローゼになりそうだと思った事がありました。

介護も同じです。当たり前のように然もらしく書かれている介護の手引きなどを見ていたら介護している方が病気になってしまいます。

介護は楽しい事です。自分が楽しんでいましたから、自分が介護をしていると思っていませんでした。

孫たちも、おばあちゃんと仲良しでした。下の孫は特におばあちゃんと遊ぶのが上手でした。男の子のせいか、おばあちゃんも大好きでした。

ある日の二人の会話が面白くて、私は陰からよく盗撮していました。

「とっ君、ご飯食べたの?」 「食べたよ」

「とっ君、ママは?」 「2階だよ」

「とっ君、今日泊っていくの?」 「ううん2階で寝るよ」

「とっ君、ご飯食べたの?」 「食べたよ」

こんな会話が延々続きます。でも私が関心する程、とっ君はおあばちゃんに上手に付き合います。

でも一度だけとっ君が音をあげたことがありました。暑い夏の日に「とっ君、靴下はきなさい」 「暑いからはかなくていいよってママが言ったよ」 この日もいつもの様に何度も何度も言われたようで、ついにとっ君は私に助けを求めてきました。 「とっ君、こんど言われたら、おばあちゃんが何回言うか数えてみたらどう?」って言ってあげました。  その後、とっ君は必死に数えていたみたいです。

 穏やかだった母も豹変

ある夜、夫とリビングでテレビを見ていると、寝たはずの母が部屋から出てきて来ました。 顔つきも鋭く、いきなり私達の前に来て「話があるんだけど。」 「どうしたの?」と言うと「じーさん(父の事)が残したお金、全部使ったんでしょ?なんで使ったの?返して!!」   「生前じーさんの浪費癖に悩まされてきたのに、残してる訳ないじゃない」と言ったのが悪かったようで、なんと私に向かってテレビのリモコンをぶつけてきました。

いきなりだったので、夫も立ち上がり「やめなさい」と母の腕を抑えました。その次には「悔しいーー」と大きく泣き叫びました。  私はこの声を2階には聞かせたくないと咄嗟に思いました。

この何分間かの出来事は自他ともに認めるほどの楽天家な私でも、胸がハチ切れるほど悲しい出来事でした。

次の日の朝、そんな事なんか無かった(いや、ホントに無かったのかもしれません)かのように、歩くにもヨタヨタとして起きてきました。

子供たちがまだ小さかった頃、義父の世話をするにも母の助けがあったからやってこれた。  なんでも相談してた。 いつも子供たちの事を良く考えてくれて、娘なんかは私に言わないような話もおばあちゃんにはよくお喋りしていました。

親と同居する事も、身の回りの世話をすることも、なんにも嫌じゃない。けど、目の前で親が老いていく姿を見ているのが辛かったです。

皆が集まって一緒に食事をするのを、とても喜んでいました。

マグロのお刺身が好きでしたから、おばあちゃんのお皿に乗せてあげると、「あら~これなーに?初めて食べたわ」と、食事するたびに言ってました。

孫たちが、おばあちゃんの初めて食べたシリーズ、今日も始まったねと言っていつも笑っていました。

93歳の頃、植物が水分不足でしんなりしてくるように、おばあちゃんの様子がしんなりしてきました。  どうしたのか分からず受診しましたら、腎臓機能が低下してきてるようです。

腎臓は体の中の老廃物を浄化する機能です。その機能が10%以下になると透析療法で血液を浄化しなければなりません。

母は血液透析なので、腕にシャントを埋め込まなければなりません。

腕に埋め込む前に透析を始める為に首の血管を使うそうです。

直ぐに入院をすることになり、そのまま病院に置いて帰ってきましたが、夜になって病院から呼び出しがあり、駆け付けると驚くほどに豹変した母の姿に愕然としました。

手足を抑制され、大声を出し大暴れしていました。首に繋いでいる管を抜かないようにする為のやむを得ない処置だったのですが、母は肌が弱く、首に貼られたテープの周りが赤くなっていて、痒いから手がいく、でも手をやると管が外れてしまう。

母と看護師さん達との戦いでした。

人って、痛みにはある程度我慢できるけれど、痒みは我慢が出来ないそうです。

その日は病院に付き添い、冷たいハンカチで痒そうな所をさすってあげ、気を紛らせようと、ベトナム旅行の写メを携帯で見せたりと一晩中傍にいました。

それから、無くなるまで週2回の透析でした。

透析はしていましたが、やはり時々調子が悪くなると、お医者さんが良く気づいてくれて2,3日の入院を勧められます。少し落ち着くと帰されるを繰り返していました。

そんなある日、いつもの様に入院したのですが、なかなか回復してくれなくて、何度も病院から呼び出されていた時の事。病棟の看護師々長が変わったそうで、師長から話がありますと言われて、ナースステイションに入ると、師長が「いつも透析にはヘルパーさんが連れてきてるんですよね?では透析中の事は家族はよく分かっていないですよね」と、とても厳しい顔で言ってきました。

透析には週2回、一度もヘルパーさんに頼んだことはなく、夫と2人で連れて行っていましたので、何を言われているのか分からないでいましたら、矢継ぎ早にガンガン言ってきます。

少し言葉が止まった所で「師長さんはどなたのカルテを見ておられるのですか?」と冷静に聞きましたら、手に持っていたカルテに目をやり、「〇〇さんですよね?」私が「違います」と言うと挙動不審に奥へ入って行ってしまいました。

ここの病院も大変だなと、本気で心配になりました。

母は96歳で亡くなりましたが、もう少し母について書いていきたいです。

義父と実父の介護をしてきましたが、実母の介護期間が長かったせいもありますが、色々の事を経験し、多くを学びました。

是非、そんな話を皆さんにも届けることができ、介護真っ最中の方や、これから訪れるであろう、親の介護に不安を抱いている方々のお役に立てることが出来れば嬉しいです。

この続きは第三章で。

 

 

 

 

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